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社会潮流への洞察:イノベーションの普及を阻害する心理的要因とは?

国や組織にとってのイノベーションの位置づけ

「イノベーション」という言葉は20世紀初頭にシュンペーターによって提唱され、その後、国を問わずさまざまな文脈で語られ、日本でも戦略論や組織論において常にホットなテーマであり続けています。実際の企業経営においてもイノベーションという言葉は企業の成長戦略で多く語られています。2021年3月期を決算期とする上場会社から提出された有価証券報告書の「企業の概況」ならびに「事業の状況」の項目において、イノベーションという言葉を使用している企業数は572社もありました(※EDINETによる検索)。これは同決算期上場企業のおよそ4分の1にのぼります。

国家の成長戦略上でもイノベーションは主要なテーマになっています。2013年の「日本再興戦略-JAPAN is BACK-」の公表以降、日本の国家成長戦略が毎年策定されていますが、これら資料の中には、平均で2.26ページに1回という高い頻度で「イノベーション」という言葉が使われていました(図表1)。実際の政策アジェンダとしては、オープン・イノベーションの実施や企業のイノベーション創出の促進、イノベーションを生み出す産学官連携、ベンチャー企業や地域のイノベーション創出、科学技術イノベーションの推進等があります。

図表1:各国家成長戦略における「イノベーション」出現推移

出所:首相官邸HP掲載資料から筆者作成

2021年10月に発足した岸田政権においても、「新しい資本主義実現会議」でまとめられた緊急提言(~未来を切り拓く「新しい資本主義」とその起動に向けて~)の中で、イノベーションの推進ならびにイノベーションの担い手であるスタートアップへの徹底支援が謳われています。

このように企業・国家の成長戦略においてイノベーションは大きなテーマになっており、そこでは「イノベーションを生み出すための各種戦略・施策」に焦点が当たっています。その戦略・施策の根底にあるのは、「生活者の利便性、ひいては社会的利便性を向上させるイノベーションは、社会・生活者に支持され円滑に普及される」という発想です。つまり、イノベーションに一定のクオリティが伴っていれば、そして、適切なマーケティング・コミュニケーションが行われれば、生活者・社会に受け入れられるはずだ、ということを前提としています。これは、イノベーションを普及させたい「普及者」側の発想で論じられているということになります。

イノベーションがまとう「新しさという負債」

このイノベーションの発想を、イノベーションを受け入れる「受容者」側(社会や生活者)の立場で考えるとどうなるでしょうか。イノベーション普及論の大家であるロジャースは、「技術者の多くは明らかに利便性が高い新しいアイデアは速やかに普及されると信じているが、実際にそのようなことはほとんどない」、と論じています。イノベーションは基本的に不確実性を伴い、今まで慣れ親しんできたやり方の変更を迫ります。多くの生活者にとっては、イノベーションを新たに利用することは(利用方法をイチから習得しなければいけない、新しいやり方が自分に合うか確信が持てない等の意味で)ゼロではなくマイナスからのスタートであり、イノベーションは「新しさという負債」を抱えることになります。新しいものを好む少数派(いわゆるイノベーターやアーリーアダプター)以外の生活者は、便利になるのは頭では分かってはいるけれども、新しいことに不安を感じる、今までのやり方を変えるのが面倒くさい等の理由で、結果として、そのイノベーションを利用しないもしくはイノベーション利用にまで長い時間を要する、という判断をすることもありえます。つまり、これまでの習慣を変えることの心理的負担感が大きなスイッチングコストになってしまうのです。

たとえば、「1年内でインターネットを利用した商品サービス(EC取引)の購入・取引」の経験率を2010年度と2020年度で比較した場合、世代別で見ると、20代で+11.5%、30代で+7.6%、40代で+11.9%、50代で+17.3%、60代で+16.6%、70代で+7.4%と、各世代のEC取引経験率が大幅に上昇しています(「単純比較における増加分」)。社会全体の経験率を把握するにはこの比較で事が足りますが、これを2010年度から2020年度の10年間で同じ世代の経験率がどれだけ変化したか(例:2010年度の20代と2020年度の30代との比較。「固定比較における増加分」)を見ると、世代によっては思ったほどEC経験率が伸びていないことがわかります。

「固定比較における増加分」を見ると、2020年度の30代(2010年度20代との比較。以下同様)で+10.7%、40代で+3.1%、50代で+3.9%、60代で+0.8%、70代で-4.1%とEC取引経験率の上昇幅はかなり抑えられます(図表2)。若い層(2010年度20代→2020年度30代)はそれまでの経験や慣習の影響が比較的小さいので、EC取引経験率は大きく上昇していますが、それ以上の世代は10年たっても経験率があまり増えていません。これらを見ると、習慣化された購買行動の硬直化がEC取引の円滑な普及にネガティブな影響をもたらしている可能性を感じさせます。つまり、「生活者の利便性、ひいては社会的利便性を向上させるイノベーションは、社会・生活者に支持され円滑に普及される」という普及者側のイノベーションの発想が、必ずしもその通りにならない、ということがいえます。

イノベーションの普及はその機能の質の良さだけでは決まらない

このようなイノベーションの利用に抵抗感を示す人々の心理を、米国の経営/マーケティング学者であるラムとシェスは、イノベーション抵抗理論(Innovation Resistance Theory : IRT)として体系化しました。そこでは、「満足している現状(習慣)からの潜在的な変化はイノベーションに対する抵抗を引き起こす可能性がある」とし、イノベーション普及の障壁として主に2つの要因を抽出しました。それが「機能的障壁」と「心理的障壁」です。「機能的障壁」とは、イノベーションの使用法やパフォーマンス、使用に伴う物理的・機能的リスク等、主にはイノベーションの機能の質に起因する障壁となります。「心理的障壁」とは、イノベーションの既存の伝統・慣習や価値観からの逸脱度合い、イノベーションに対する好ましくないイメージ等、自身の経験や認識に起因するものです。これら2つの障壁に基づくと、イノベーションの機能の質のみでイノベーションを利用するか否かは決まらないということになります。

今後もさまざまなイノベーションが開発されると思いますが、イノベーションの機能の質の高さと社会・生活者の受容度合いの関係が一層相関しなくなる可能性があります。なぜならば、今後は「機能拡張型イノベーション」(機能拡張のためのイノベーション:新たな製品・製品カテゴリ等)だけではなく、「機能更新型イノベーション」(根本的機能を変えるイノベーション:AIやゲノム編集、培養肉等)の創出も見込まれるからです。このような「機能更新型イノベーション」は、人々の既存の慣習や価値観から大きく乖離し、軋轢が生じることもありえます。

このような中でイノベーションの「普及者」は、イノベーションの機能訴求に終始するのではなく、受容側である生活者の視点に立ち、人々の今までの慣習や価値観を踏まえてそのイノベーションがどれだけ受け入れられるかに関する洞察を深めること、そしてそのイノベーション普及のために、人々の既存の慣習や価値観に合わせたコミュニケーション戦略を構築することが必要となります。このコミュニケーション戦略は、生活者を起点としてプランニングされるものであり、その中には広報的な考え方や手法が大きな役割を果たします。既存の慣習や価値観との軋轢ができる限り発生しないように、または最小にするためのコミュニケーション戦略の設計・実行が、イノベーションの円滑な普及にあたりさらに重要になっていくものと思われます。

社会潮流研究所 主任研究員
古橋 正成

(参考文献)
首相官邸ホームページ掲載の各国家成長戦略資料
総務省 (2010/2020) 「通信利用度調査」
Ram, S., Jagdish N. (1989). Consumer Resistance to Innovations: The Marketing Problem and its solutions. The Journal of consumer marketing, Vol.6 (2), p.5-14
Rogers, E.M. (2003). Diffusion of innovations (5th ed). New York: Free Press(三藤利雄訳『イノベーションの普及』、翔泳社、2007年)

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